はじめに
2017年度センター試験「国語」に、新井白石の書いた漢文が出題されました。
日本漢文の出題は本試験では初めてということで、一部の受験業界に動揺が走っている様子。
そもそも、漢文教育について時折、「どうして日本人が国語教育の中で漢文(古典中国語)を学ぶ必要があるのか…」というような声が聞こえてくることがあります。
今回のセンター漢文の出題は、その疑問に対するひとつの答えを提示しているように思えます。
というのも私は以前、高校で漢文の授業を担当させて頂いた経験があります。
そのときに使用した教科書も『論語』、『老子』、『荘子』、『韓非子』、杜甫、李白などのいわゆる中国古典詩文が中心でした。
日本人も漢文を書いていたことについて、授業中に少し話をすることはあっても、じっくり読むことはできませんでした。
また、この新井白石の漢文、内容や修辞技法もかなり洗練されています。
ということで、みなさんにじっくり読んで頂きたいと思い、記事にしてみました。
センター漢文2017問題文日本語訳(新井白石『白石遺文』より)
細かい日本語訳は、かなり意訳していますが、下記を参照してください。
色がついていたり、太字、下線などがついているのは、後で説明します。
雷のような大きい音でも、遠く離れた場所で聞けば、それはまるで盆を叩くような小さい音に聞こえる。長江や黄河のような大河でも、遠く離れた場所から眺めれば、まるで地面が帯をしめているように小さく見える。それはなぜかというと、距離が遠いからだ。だから、千年前の過去のことを、千年後の現在から探るときも、時間的な距離が遠く離れているので、その千年の間に変化があるということを知らなければ、まるで船から落としてしまった剣を探すのに、船に刻んだ目印を手がかりにしようとするのと同じように、見つからなくなってしまう。いま剣を探している場所は過去に剣を失った場所ではない。それなのに、目印を刻んだ場所がここ(船体)にあるからといって、落ちた場所はここだと思っているのだ。どうして困惑しないことがあろうか、困惑するに決まっている。
いま、江戸は世の人々に名都と称されている。身分の高い人が集まり、船や車の集まるところであり、実に天下の大都会である。しかしながらこの土地の評判の根源を昔の時代から探し出そうとしても、これまで聞いたことがない。時間的な距離が日に日に遠ざかっているので、その間に事物もまた変化している。思うに、後世からみた現在の事柄も、現在からみた過去の事柄と同じようなものである。世相の時間の距離が離れるにつれて、事物の変化も多くなる。なので、知りたいと思うことを探っても手に入れることができない。
私はひそかにこのように感じることがあった。『遺聞』という本は、このような理由によって作ったものである。
ポイントは対句の構造を理解すること
さて、この文章、何がすごいのかというと、【対句】!
これにつきます。
対句になっている部分を組み合わせごとに色を変えて示すと、以下の通り全部で6組あります。
①聴雷霆於百里之外者,如鼓盆,
望江河於千里之間者,如縈帶
以其相去之遠也。
故居 ②于千載之下,
而求之 于千載之上,
以相去之遠而不知有其変,則猶刻舟求剣。
③今之所求,
非 往者所失,
而謂其刻在此,是所従墜也。
豈不惑乎。
今夫江戶者,世之所称名都大邑,
④冠蓋之所集,
舟車之所湊,
実為天下之大都会也。
而其地之為名,訪之於古,未之聞。
豈非古今相去日遠,而事物之変亦在于其間耶。
蓋知,⑤後之於今,
⑥世之相去愈遠,
事之相変愈多,
求其所欲聞而不可得,
亦猶 今之於古也。
吾窃有感焉。『遺聞』之書,所由作也。
対句①について
①はやや長く、文法的な構造も少しややこしいので、少し詳しく説明したいと思います。
問題文では行を跨いだりして、対応関係がわかりづらいかもしれません。
そこで、横に並べてみました。

こうしてみると、文法構造が一致しているのがよくわかります。
まず、レ点、一・二点、送り仮名のふられている位置が対応してます。
レ点や一・二点のことをまとめて「訓点」と呼びますが、これは古典中国語を日本語の文法順序に合わせるための記号です。
したがって、もしも2つの文の訓点が対応していれば、文法構造も同様に対応していることがわかります。
次に、使われている字のイメージについて細かくみてみましょう。
1字目は、どちらも五感を使って何かを捉える動作。
- 「聴く」:聴覚的
- 「望む(遠くにあるものを見る)」:視覚的
2〜3字目は、自然物で、どちらも大きいものです。
- 「雷霆」:雷
- 「江河」:「江」は長江、「河」は黄河
4字目は、同じ字。「於」は動作の場所を示す前置詞。
5〜8字目は、どちらも長い距離を表すもの。
9字目は、同じ字。「如」は比喩表現「〜のようだ」という意味。
10〜11字目は、身近な道具に関係しています。
- 「盆を鼓す」:お盆をぺんぺんと叩く
- 「帯を縈ふ」:着物の帯を身につける ここでは、動作も大きくなく、また物としても「雷」や「江河」の大自然と比べると小さいです。
このように、文法構造が対応しているだけでなく、左右に並べてみたときに語のイメージも対応しています。
したがって、対句の作り方としてかなり洗練されているといってよいでしょう。
では、なぜこのような2つの文が
対句として並べられているのかというと、
それはこの対句の直後に書かれています。
- 其の相ひ去るの遠きを以てなり(以其相去之遠也) それは距離が遠いからである。
つまり、雷が小さい音に聞こえるのも、長江や黄河が小さく見えるのも、どちらも【遠く離れたものは、よく認識できない】という同じ原理を表す現象なんですね。
②〜⑥について
さて、問題文中には対句が全部で6組あります。
それぞれがどうして対句として表現されているのかを探ると、やはりそれぞれの前後に書いてあります。
- ②: 時間的な距離が遠く離れている
- 千年後(の現在)にいて、千年前(の過去)のことを探る
- ③: その間に変化がある
- 今探している場所は過去に(剣を)失った場所ではない
- ④: 江戸は天下の大都会だ
- 身分の高い人が集まり、船や車の集まるところ
- ⑤・⑥: 昔から今までの時間的な距離が日ましに遠ざかるにつれ、事物もまた変化する
- 後世からみた現在の事柄も、世相の時間的距離が遠ざかるにつれて、事物の変化することもますます多く、知りたいと思うことを探っても手に入れることができないのは、それもまた現在からみた過去の事柄と同じようなもの
中でも⑤⑥の部分が読み取れるかというのは、全体の理解に関するので重要ですね。
結局どういうこと?
さて、全体を読む上でポイントとなるのは、①は物理的な距離のことを言っていたのに対して、②③⑤では時間的な距離の話に置き換えられているという点です。
つまり、この文章の大意をかなりざっくり言ってしまうと、【物理的に遠く離れたものはよく認識できないけど、それは時間的に離れたものでも同じだよね】ということです。
ここまで把握した上で、最後の一文を見てみると、以下のようにあります。
- 『遺聞』という本は、このような理由によって作ったものである。
問題文には注釈がついていて、『遺聞』とは『江関遺聞』という本のことだとあります。
したがって、この文章全体をさらにざっくり言えば、「今の江戸のことも、時間がたってしまうと分からなくなってしまうかもしれないから、僕が『江関遺聞』をいう本に今のことを書いておくよ」ということなんですね。
白石は、何百年か後に江戸で五輪が開催されることを見越して、さらにいえば人々が江戸の文化に注目するだろうことを見越して、当時の江戸のことを書き残してくれたのでしょうか。
日本のことを知り、世界に発信するためにも、漢文や漢文訓読法に習熟しておかなければならないという、これは出題者からのメッセージなのかなと…勝手に推測して胸を熱くしています。
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